お米を作っているのは誰?

「お米を作っているのは誰ですか?」

こう聞かれるとなんと答えますか?

 

「そりゃぁ、百姓やろう!」「農家の人!」「隣のおじさん」

ではないでしょうか。

では、こう聞かれたらどうでしょう?

「お米が取れたらだれに感謝しますか?」

 

「そりゃぁ、やっぱ百姓やろう!」「やっぱり農家の人!」「これも隣のおじさん」

と答える方が多いのではないでしょうか。

私もそう思います。

ここでちょっと視点を変えたいと思います。

一緒に考えてみませんか。

 

「お米が取れたらだれに感謝しますか?」という問いを、現場でお米を作られている農家の方に投げかけてみたらどう返答されると思いますか?

 

特に昨年の稲刈りの時期(9月ごろ)は、強風、大雨で天候が悪かったですが、そういう年の収穫後に今の質問をしてみたとしたらどうでしょう。

 

「よう頑張ってくれた!耐えてくれた!ありがとう!」

と、何に対して感謝されると思いますか?

 

おそらくですが、収穫まで頑張ってくれた植物に、この場合であれば稲に対して、感謝の気持ちでいっぱいになるのではないでしょうか。

というのも、昨年、30㎏の紙の袋に玄米を詰める作業をしているときに、私自身そう思わずにいられませんでした。

「一粒もこぼさん、無駄にしないからな!」という思いで作業をしてました。稲の生命力に感謝いっぱいでした。

こう聞かれると、

「えっ!植物に感謝?農家の方に感謝の間違えなのでは?」と思われる方もあるかと思います。ここは、いろいろな価値観があると思います。

ご縁があり、今この文章を読んで頂いている皆様はどう思いますでしょうか?
ちょっと一緒に想像してみませんか?

雑草などはほっといても、それどころか除草剤をかけてでも草刈りしても、コンクリートやアスファルトの隙間から生えてきます。

 

でも野菜やお米はそうはいきません。

ちょっとした寒さで成長が遅くなったり、枯れたり、また、雨が続いたり、雨の勢いで跳ね返った土がついただけで病気になったりしたりもします。

強風で折れたりもします。人間の骨のように折れたものがつながったりは、ほとんどの場合しません。

ですから、寒さや強風から守るために、ハウスなども、必要ですし、土が跳ね返らないように、野菜の場合、藁を敷いたりもします。

その際、朝、目が覚めたら昨日までなかったハウスが勝手に出来上がっていたり、ぼんやり外を眺めていたら藁が降ってきて、都合よくきれいに野菜の下に並ぶ、ということは、当然、ありません。

人間がします。

ですから、人間の力は農作物が育つには欠かせません。

でも、人間の力さえあれば農作物は収穫のできるところまで育つのでしょうか?

どうでしょうか?

私は育たないと思います。

何かしら植物としての成長はするとは思いますが、農作物として満足のいく収穫のできるところまでは育たないという意味です。

どんなにハウスを作っても藁を敷いても、冷害にあい生長が遅れたり、病気になったりするものはあります。

ちゃんと見た目は立派に成長しているのに、肝心の実がならなかったり・・・。

たとえば、ミニトマトとか。経験はないでしょうか?

お隣さんはミニトマトがたくさん採れるのに、私のは実がならない。

ここで私がお伝えしたいのは、この後なんです。

ここから2通りに分かれます。

どういうことかといいますと。

一度冷害にあって生長が遅れても、

そのまま枯れていくものと、

遅れながらも実を結んでくれるもの。

一度病気になり、元気がなくなってきて、

そのまま枯れていくものと、

しばらくしてまた元気になって実を結んでくれるもの。

強風が吹いても、

折れて枯れるものと、

曲がりながらも傾きながらも地面すれすれでも実を熟すもの。

この違いはいったい何でしょう?

同じ田畑内で、同じ人間の労力をかけたものでも、このように分かれる場合があります。

この差は、いったいどこが原因なのでしょうか?

 

余り物事を伝えるのはうまくはないのですが、少しでもその情景が思い浮かんで頂けたならうれしいです。

この差、この違いの一番大切なところは、私は、植物自体の生命力にあると思います。

どんなに手をかけても、植物自身に生きる力がなかったら枯れてしまいます。

 

反対に、少ししか手をかけてあげられなくても、植物自身に「何がなんでも生き抜いてやる!」という生命力があれば、勝手に育ってくれると、私は感じます。

そう感じると、私なんかがしているのは、作物が生きるためのほんのわずかなお手伝いだけなんだなぁと思い知らされます。

ですから、「俺が育ててやっやってるたんだぞ!」とは到底思えません。

特に去年なんかは、稲刈りの時期に台風がたくさん来て、全国的にものすごく収穫量が減り、味まで落ちたという意見をテレビのニュースかラジオで聞きましたが、私はそういうふうには思いませんでした。

まず、収穫させてくれてありがとう。頑張ってくれてありがとう!強風に大雨に負けずに耐えてくれてありがとう!という思いで一杯でした。

私にとっては、去年のお米こそ、あの悪天候を乗り越えた、選りすぐりの生命力のある稲だったと思います。

そんな生きる力のたくさんこもったお米を食べたらどうなると思います?

そこはご想像におまかせします。

長々となりましたが、今、私が感じていることは、

収穫まで作物が育つには、基本は植物自身の生命力が必要ですし、

でも、植物だけでは満足のいく収穫の状態にはならないので、

そこに補助として人間の助けが必要。

もっというと、理想の収穫の状態とするのに、その理想の状態に導く助け方が大切になってくるので、そこに農家の工夫研究努力の結晶の技術が光ってくるのではないかなぁと思います。腕の見せどころってやつです。

 

だいぶ長々としてきましたから、まとめていきたいと思いますが、

「お米を作っているのは誰ですか?」という問いは、

「稲自身」というのが私の現段階の考えです。

人間はその補助。

これはあくまで私個人の意見ですが、そう思って農作業を考えるとき、注目すべき点は何なのか、力を入れて取り組むべきところはどこなのか?改めて考えさせられます。

稲が伸び伸びとその本領を発揮し生長する、そして最高の実を生み出す、そのためには何が必要なのか?

これからも楽しく取り組んでいきます。