僕らの草刈りは、僕らのアートなのだ(前篇)

そろそろ夏です。あぜ草刈りの季節です。あぜ草刈り。田んぼのあぜの草を刈る。文字通りの意味なので、農家じゃない方もイメージはわきますよね。ようするに、あぜに生えている邪魔な草を草刈り機でザーンと刈り倒していく作業です。このご時世、あぜの草は除草剤でやっつけるのが普通で、わざわざ草刈り機を振り回すなんてのは少数派です。が、「道具は変われども(鎌から草刈り機に)、日本人は営々とあぜの草を刈ってきたのだ」などと無理やりノスタルジックな気分に浸かりつつ、軽快なエンジン音を響かせてる今日この頃なわけです。どれ、じゃあ昔はどうだったのか、われらが石川県が誇る農業の聖典、「耕家春秋」(江戸時代の農書です)をよんで当時の草刈り事情をかえりみようと思ったんですが・・・なんと
あぜ草刈りなどしていない。
と、いきなりショッキングな事実に直面してしまいました。いや、刈らないというわけではないんですが、今の草刈りとはちょっと意味合いが違うんです。本書の第一巻「年間の農事暦」を見ますと、3月の下旬に、あぜ塗りをした後、ヒエや大豆をあぜに播くと書いてあります。はん?播くだと?ここでいうヒエは、雑草のイヌビエではなくて、食べるヒエです。このヒエや大豆はとうぜん刈り取ることになりますが、それはまさに食べ物を収穫する行為じゃあないですか。また、7月上旬には、あぜの草を刈り馬屋にいれると。これは、肥料となる厩肥をつくるための材料として草を刈っているということです。ようするにですよ、草が邪魔だから刈っているのではなく、それが必要だから刈っているのです。
ちょっと話がそれますが、江戸末期に日本へやってきた外国人たちの紀行文に、日本の農村が、すっごくきれいで、あぜに草なんかないぞとエラく感激しているような文章があったような気がします。あれは誰の本だったかなあ。勘違いかもしれません。ともあれ、それを読んで、昔の日本人はやたら勤勉だったんだくらいに思ってましたが、よくよく考えてみれば、見た目だけのためにそんなことできませんよね。食器洗浄機もなければ電子レンジもない時代です(うちにもないけどね)。外国人のために農村風景をビューティフルかつワンダフルにしているひまなんてあるはずないです。むしろ、結果としてそうなっていたという方が納得がいきます。そういえば、うちの母が申しておりましたが、子供のころ、裏山の林床は、木の枝も落ち葉もなくきれいになっていたそうです。当時はかまどで煮炊きするので、みんなが燃料として枝や葉っぱを採集してしまうからです。
なんだろ、よくわからないけど、ちょっと負けた感があります。いやだいぶね。ここは強気に、「今は豊かだから、あぜで豆なんか作らないのさ」とふんぞりかえってもいいんですが、「じゃあ、なんで刈るんだYou?」という疑問にさいなまれます。「邪魔だから」って理由は、到底、「必要だから」という理由にかなわないような気がします。しかも、時間と体力とガソリンをふんだんに使ってさ、「邪魔だから」ってあなた。
なぜ、あぜを刈るのか、改めて、その現代的意義を述べよと問われれば、斑点米カメムシ云々の話もありますが、一番のポイントは、「草が生えてると世間体が悪いから」です。結局のところ。山奥で谷ひとつ、一人で百姓しているならともかく、集落でいくつもの農家がとなりあわせで田んぼをしているとなると、あぜをあんまり荒らしておいたら苦情がでますし、となりがそういう人なら逆に苦情をいってやりたくもなるでしょう。私はどちらかというと、ずぼらな方(だいぶ)なので、ヤブこぎするほどじゃなければ、「ああ草が生えてるね。冬には枯れるよ。」くらいに思っちゃうんですが。またまた、話がそれますが、昔、栃木県の借家に住んでいたとき、小さな裏庭があったんです。放っておくと夏にカラスウリが夕方に咲いて、オオスカシバ(きれいですが、蛾です)がぶんぶんとやってきて、たいそう楽しかったのです。でもある日仕事から帰ってくると庭がきれいさっぱり。大家さんが「刈っといたから~」と陽気に告げてきます。「ありがとうございますう」と応えながら、チっと思っていたのですが、やっぱり人の住むところですから、大家さんの方が真っ当ですよね。
学校の隅っこで薪を担いでいた、二宮金次郎さんもこうおっしゃっています。人の道というのは、自然の道とは違うのじゃ。自然のままがいいなんて言ってなんでも放置しておいたら、人の生活は成り立たないぞと。人には人の生活空間というものがありますから、その中ではいろいろちゃんとしないと、人らしい生活を送ることはできません。たとえば、「いやあ、生き物は大事だから家の中の生物多様性を高めようよ」なんて口にしたら、虫どもと一緒に追い出されること請け合いです。田んぼだって、家の中ほどとは言いませんが、それなりにちゃんとしておかないと人の道を外れるというわけです。
さて、金次郎先生のおかげで、ただ邪魔な草を刈るっていうことに哲学的価値を与えていただいたんですが、なんちゅーか、こー、結局見栄えかよっていうモヤモヤが晴れません。人は見た目が9割なんていいますが、実際そうなんでしょうが、やっぱり、中身みたいなものが伴わないとっていうのがあるでしょ?例えていうなら、飾るだけの器と使うための器の違いといいますか。私としては、使って美しい器にこそ価値があると考えてしまうんですよね。それに、江戸時代の人が今の草刈をみたら、「おまえら、ただ刈ってんのか?」とバカにされるような気がします。私としては、「いやいや、おっちゃん、ただ刈ってるんじゃないよ、今の畔には、いろんな機能があるんだ、そのために刈ってるんだよと。」と自信をもっていえるといいなと思っているのです。というわけで続きは後篇で。