種子法やめるってさ(後篇)

現内閣にはクールジャパン戦略担当大臣というポストがあるんですね(兼任ですが)。前から思ってたんですが、このクールジャパンというのが、どうも決まりが悪いというかおもはゆいというか。そりゃあね、なじみのものが海外でも評価されるのは、もちろんうれしいことですよ。だけど、日本人の口からその言葉が出てとたんに、なんだか酸っぱいものがこみあげてみます。おっと、主要農産物種子法の話でした。はてさて、13日に参議院で廃案が可決されました。それにしても、農家のみなさんも消費者のみなさんも、本件について問題にすらしてもいないようだし、しょうがないんじゃない?みたいなご様子です。大事なことなんだけど。こうなると、クールというより、コールド(冷めきった)ジャパンなんじゃないでしょうか。なーんてね。さて、前編では、主要農作物種子法とは何か、またその廃止の理由なるものについて説明しました。そして最後に、種子法の問題点を述べたいなんて言ってしまいました。だまって終わればよかったと後悔しつつ、後篇でございます。
唐突ですが、コメといったらコシヒカリですよね(不承知だという方も、そういうことにしてください)。コシヒカリは、日本の水田の3分の1で作付され、山形県以南のほぼすべての府県で奨励品種です。コシヒカリは、粘りが強くて日本人好み、1969年に始まった自主流通米制度を背景にどんどんその作付を増やし、今だに、しぶとく作付面積一位を誇っています。自主流通米制度というのは、それまで配給制だったコメの一部を自分で売っていいよという制度で、この制度によって初めて消費者が品種でコメを選べるようになったのでした。つまり、

Aさん:お、コシヒカリっておいしいな。これからも買ってみよう。
Bさん:じゃあ、コシヒカリを植えよう。

という流れです。でもね、コメの味なんてものは、正直そんなにバリエーションがないので、コシヒカリじゃなきゃなりませんというほどの舌を持っている人は限られていて、美味しい「らしい」からという理由ではないかとも思われます。おお、これは山形県余目のコシヒカリやーみたいに叫ぶ人はふつういません(あれササニシキでしたっけ)。まあ、市場のマジックですね。
また、コシヒカリが普及した理由には、政策サイドの思惑もあるかもしれません。というのは、コメの品種には、肥料をたくさんやればとれるタイプととれないタイプがあります。コシヒカリ以前は、どちらかというととれるタイプが作られていました。食糧足りませんでしたから。ところがコメ余りという時代になると、一転してとれないタイプが作られるようになります。コシヒカリは両者の中間らしいですが、とりたい農家ととりたくない政府で手打ちをしたような印象です。このように、市場マジックと国の政策で品種が決まってしまう様子を見てると、なんだかコシヒカリが時代にほんろうされる悲劇のヒロインに見えてきます。
悲劇はともかく、実質的に何が問題かといって、同じような作物ばかり栽培していると病気などによって全滅する恐れがあるというものがあります。先ほど、コシヒカリの作付面積が全体の3分の1だといいましたが、それ以外もコシヒカリの近しい親戚ばかりです。作付面積ランキングの2位から5位は、ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、ななつぼし、だそうですが、これらとコシヒカリと合わせて作付面積の3分の2に達し、そしてみんなコシヒカリの親類縁者です。現在の品種改良におけるデザインの基本は、味がよい(コシヒカリ風の味)で(少しだけ)収量が多い(といいな)というもので、必然的にコシヒカリの周辺で交配を行っていくことになります。蛇足ですが、近頃は、日本のコメ市場を狙ってアメリカや中国でもコシヒカリを作っているから、海外で静かに熟成された新しい病原菌がひょっこり現れて日本で猛威を振るうということもあるかもしれません。
このようなリスクを下げるため、コメ品種の遺伝的多様性を高める必要性がある(つまり色んな品種をつくるべきということ)のですが、「コシヒカリより美味い米」の中で著者の佐藤洋一郎氏はひとつの提案をしています。どんなことかというと、生産者と消費者が直接対話して、どんな品種を作りたいか決め、品種改良をやってみたらどうかとのことです。これを各地域、各農家がそれぞれ行えば、遺伝的多様性も高くなるし、土地にあった品種になるし、さらに消費者が農業生産に主体的に参加するチャンスが増えるでしょう。自分が食べるものにもっと興味を持ってほしいと常々思ってるんですが、一挙に品種改良にまで踏み込んでもらおうというのは、すばらしい提案だと思います。
もちろん、品種改良をそれぞれがするっていうのは、簡単なことではないですが、不可能でもありません。だって、昔はやってたんだから。それと、新しい品種を作ってしまうとそれに合わせた作り方というのも考え出さなきゃならなくなりますが、私としては、ここポイント高いです。明治以来、品種というのはお上(かみ)から授けられるものでした。そうすると、その作り方も基本的にはお仕着せになります。やれこの時期に植えなさい、とか、ほれこの肥料をやりなさいとかね。ようするにノウハウもらってライセンス契約しているフランチャイズ加盟店みたいなもんです。ちょっと傲慢かましますけど、そんなところから、新しいものは生まれません。世界に評価される日本の諸芸を作り出してきたのは、本当の意味での民間人です(そして、どちらかというと従順さの欠ける人かと思う。偏見かしら)。まったく、官主導のクールジャパンなんでありえないぞ。と声に出して叫びたいです。
さて、最後に話がそれたものの、だいたい書くべきことは書きました。が、それたついでにもう少しだけお付き合い下さい。先ほど、コメ品種の遺伝的多様性を高めることでリスクを下げることが必要みたいに言いました。だけど、本音としては、必要だから大事にするんじゃなく、大事だから必要と思ってもらいたいのです。品種がたくさんある方が面白いと思ってほしいのです。コレクター的観点じゃなくて、八百万(やおよろず)的な観点でね。さらにいうと、品種の多様性なんてちっさい話だけじゃなくて、もっと広い意味での多様性も愛してほしい。コメ品種の画一化は水田景観全体の画一化につながってます。田んぼがコメだけをつくるところではなくて、カエルやトンボのすみかだったり、水どりの休憩場所だったりするのだと考えてほしい。だから、そういう場所にぴったりの品種なんてのもありじゃないかと今妄想しているところです。
追伸: 主要農作物種子法がなくなっても、上で述べたような問題はよくならないでしょう。政府のいう民間は個々の農家や消費者ではなくて、グローバル企業ですから。もっと悪化すること請け合いです。