自然農法・自然栽培の「自然」とは

自然農法・自然栽培の「自然」とは
自然なのに栽培?
いきなり私事なのですが、自然栽培とか自然農法とか聞くとそこはかとない違和感を感じます。そんな農業が可能なのかとかいう現実的な問題ではなくて、単に言葉の問題です。「自然」なのに「栽培」?、「自然」なのに「農法」?というのがひっかかるのです。実践されている方々は、そんなつまらぬことにこだわることに意味はないというかもしません。言葉なんてものは、コミュニケーションの当事者同士が同じものをイメージできればそれでよく、アゲアシをとるような行いをするものは去れと私も思います。しかし、こういう問題を片付けないと一歩も前に進めないような性分の人間はいるものです。「どうして分数をひっくり返して掛け算すると割り算になるの?」と考える者に「そうすればそうなるの!」といっても通じません。「自然」という言葉に過度の思い入れがあり、それが人生の根幹であったような人間にとっては、放っておけない問題なのです。これが片付かないと私の自然栽培・自然農法もまた一歩も前に進まないように思います。
「自然」という言葉との出会い
私が生まれたのは高度経済成長期の末期、肥大した工業が公害やエネルギー問題を噴出させていた時代でした。そのためなのかはわかりませんが、幼い頃から環境問題は身近で重要な事柄と認識していました。そして中学校、高校といった多感な時期には、長良川河口堰や八場ダム、諫早干拓など巨大な公共事業に憤ったりしていました。大学に入るころは自然保護という言葉がよく使われ、手つかずの森林を保護しようというような気運が高まっていました。そういうムードに流されたのか、農学部林学科を選択してしまいました。大学に入ると最初のころは教養課程といっていろんな分野の講義をとります。長い前おきでしたがやっと本題です。ある講義で教官が、「最近は自然保護なんていうけど、自然を保護するってどういう意味なのか君たちはどう考えているのか?」というわけです。何をいうか、この年寄りめ、自然保護っていうのは森林やら川やらの生き物を守ることに決まってると自分は思いました。教官はこう続けます。「自然という言葉は、私たちのまわりを取り巻くすべてのもので、人間も人間の営みも含まれている。そんなものを保護するというのはどういうことなのか?」と。正直、このとき、この問いかけにあまりぴんと来ませんでした。禅問答みたいであまり意味がないなと感じたのかもしれません。熱帯雨林やら釧路湿原やらアフリカゾウやら保護するべきものは明確で考えるまでもないと思いました。しかし、結局、この20年来ずっとこの禅問答について考えさせられていたようです。自然とは何なのかと問うことが私のライフワークになってしまっていたのです。
福岡氏の自然農法の自然
ではさっそく、自然農法・自然栽培における自然について考えてみます。自然農法の提唱者として有名な福岡正信氏の著書「わら一本の革命」を拝読すると、科学と自然の対比が強調されています。化学肥料や農薬の使用、近代的な農法(機械による耕耘など)などといった「科学的な行為」を無用なこととし「自然」に任せることが重要だと述べられています。こういう文脈ですと、科学的に有為だとされることをしないという無為を指す言葉として自然が用いられています。明らかにアフリカゾウなんかは関係しそうにありません。穿った見方をすれば、ここでいう自然は、「自ず」と「然り」、身を委ね任せるがままにしておけば正しい状態が導かれるといったことでしょうか。いきなりワンパンチ喰らいました。そういう意味の自然ですか。勝手な思い込みをする方が悪いんですが、自分が思っていた自然栽培というのは、トンボが飛んでてカエルが鳴いててそんな中で作物を育てるようなものだったのです。もちろん、農薬を使わないので結果としてこうした生き物が生きていけるのでしょうよとあなたは言うかもしれません。何が違うのか私自身でも定かでないのですが、むりやり表現すると、私にとって自然というのは、トンボであってカエルであって水の流れであってひとつひとつ認識すべき対象なのですが、福岡氏の自然は、人間(というか己れ)が存在する世界の背景という感じです。「何もしない」ことを実践することによって諸々すべて正しく機能していくと。
「何もしないこと」をどう実践するの?
できるだけ何もしない。無為自然。老荘思想に近いのでしょうか(老荘思想もよくわかってないんですけども)。ただそう分類できたとしても大して理解が深まりません。正直いって私のような俗物はたった今その高みへジャンプすることができそうにありません。「何もしない」というアプローチをどうやって実践したらいいんでしょうかと真顔で聞かざるを得ません。福岡氏の農法でも種は播きます。種を播くのは自然な行為なんでしょうか?野生動物である人間は種を播く習性があるのだと納得すればいいのでしょうか。農薬を撒く習性は本来ないんでしょうか。ただのいいがかりになってきました。いまさらですが、福岡氏は、農薬とか化学肥料とかいったものを使わないでもって自然に農業をしたらいいよと、ざっくばらんに自然という言葉を使っているだけかもしれません。自然体の自然かな。ともかく言葉をあげつらってそんなことを言うな、空気読めと言われそうです。でも私は、空気など読む気になれません。自然農法の具体的方法について福岡氏が述べているんだからその通りにやればいいという真っ当なアドバイスも今は受け付けません。自然という言葉への執着は伊達じゃないんです。そうしてどんどん深みにハマっていくようですが、結局のところ、自然農法の「自然」は、私の「自然」ではなく、そうであるなら、これまでの自然農法もまた私の自然農法ではないということになります。意味を使い分ければいいでしょうと思われるかもしれませんが、そんな簡単なものではありません。言葉のもつ力をあなどってはいけません。安易に受け入れてもいずれきっと困ったことになります。決別すべきものとは決別せねばならないのです。
思索の旅はつづく
自然農法を実践する前から路頭に迷ってしまいました。福岡氏には軽蔑されそうです。実践の中で会得したことをそんな風に頭の中だけでぐちゃぐちゃ考えても仕方ないというでしょう。しかしながら、幸か不幸かそういう風にぐちゃぐちゃ考える性分なうえにそういう訓練をうけてきてしまったようです。それに自然農法・自然栽培の「自然」にもっと積極的な意味を持たせたいという願望が自分のなかでむくむくと育っていることに事ここに至ってきづかされたようにも思います。こうして私の意味があるかどうかわからない思索の旅は続くのです。